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職業、裏ビデオ屋

― 愛した少女を生業に年収一億円を稼いだ男
著・孤天我神
第九部 あんぐら堂という革命児 ~大団円の前に~

 ビルドゥングスロマンと呼ばれる小説のジャンルがある。ダメだった主人公がさまざまな苦難を乗り越え人として成長していくという筋書きの物語のことだ。一方、ピカレスクロマンと呼ばれるジャンルもある。これは悪漢小説とも呼ばれ、社会の底層にいる人間が罪を犯して生きる姿を描いた物語群を指す。

 果たして、この物語はビルドゥングスロマンであろうか、あるいはピカレスクロマンであろうか。筆者にも分からない。あるいは、どちらでもあるとも言えるし、どちらでもないとも言える。

 おそらく、世間の一般良識と照らしたなら、あんぐら堂という人物の評価は決して高いものとはならない。楽をして、ズルをして金を稼ぐ人間は、この日本においては嫌われがちだ。嫌儲主義という言葉もある。まして、その稼ぎ方が法に反するものであったり、法にこそ触れていなくとも一般良識に反するものであった場合、その反発は顕著に現れる。労働とは汗水垂らしてするもの、そして財とは勤勉さと努力の結晶であるべきだ、というモラルは根強い。

 しかし、僕はそこに疑問を持つ。そうしたモラルは一見するとたしかに立派だが、それは結局、互いに互いの首を絞めあう結果になるからだ。頑張る奴こそえらい、コツコツ積み上げる奴こそえらい、というのは日本が国家をあげて取り組んできた一つの洗脳プログラムである。確かに日本の戦後はそうした過剰な頑張りがなければ立ち行かなかったところはあっただろう。焼け野原から現代都市を作り上げるのはそうそう容易なことじゃない。

 ただし、その結果、なんのために頑張るのか、という問いはすっかり置き去りにされてしまった。つまり、努力そのものが目的化してしまったのだ。頑張る奴がえらいのは頑張ってるから。そして、頑張らない奴が問題なのは頑張らないから。これは現代を取り巻く自己責任論とも表裏一体の考え方だろう。

 そもそも、頑張って働くことはそんなにえらいことだろうか。東電の社員はきっとみんな頑張って働いてきたはずだ。あるいは、ナチス労働党の職員だって頑張って働いていたはずだし、世界侵略を試みたナポレオン行軍の兵士たちも頑張って働いていただろう。原発を作ったのも、ユダヤ人を大量虐殺したのも、世界を暴力的に侵略したのも、みんな真面目で勤勉な働くお父さんたちなのだ。人は頑張って悪をなす。歴史を振り返れば、むしろ頑張りものほど大悪をなす。

 その点、この男、あんぐら堂はどうだろうか。なるほど、その人生はなかなかに頑張り屋だったかもしれない。しかし、それは人並みに頑張ることができそうもないという自身のコンプレックスの反動でもあった。いうなれば、いかに頑張らずに生きることができるのか、そう頑張って模索してきたのがあんぐら堂の人生であったとも言える。

 そのために、あんぐら堂は確かにズルをした。他人の作品をコピーし、転売し、「不当」な利益を得てきた。海賊版、ブートレグである。ただ、その悪は、世間の大悪に比較したとき、小悪だ。ある一定の基準のもと、人を不当に勝ち組と負け組に分別する社会において、そこに従順し摩耗されて生きるでもなく、かといって反社会的組織に入るでもなく、はたまた反体制を掲げてそれに抗うでもなく、自分らしく独立して生きるためには狡知が必要なのだ。その狡知があんぐら堂にはあった。

 先にも述べたように、狡知はその性質上、世間的には評価されない。悪巧みするネズミ小僧はいつだって物語の嫌われ者だ。しかし、僕はこうした狡知を評価したい。なぜなら、こうした狡知こそが、硬直した社会を、硬直した権力関係を転覆する、動力になるからだ。




 実際、あんぐら堂の狡知は、世界を変えたのである。現在、FC2を中心とする素人制作のアダルト動画市場の大きな盛り上がりを牽引したのは、間違いなくこの男だ。前回、あんぐら堂が動画販売を始めて成功したということは書いた。ライバル不在のまま突き進んだ二年目の売上はおよそ一億四千万、たった一人で、である。

 きっかけを生んだのはまほ(誌宝)だったかもしれないが、まほ(誌宝)は所詮、非合法の裏ビデオ制作者。そうした人物は関西援交をはじめ、他にも多くいた。あんぐら堂の特筆すべき点は、持ち前の狡知でまほの作風のみをコピーし、それを合法的な映像に仕立て上げて販売し、成功を治めたということである。さらりと書いたが、実はこれ、ものすごい転換なのだ。これによりプロの合法映像とアマチュアの非合法映像という硬直的な二項対立はあっさりと転覆した。言ってしまえば、存在しなかった市場(非合法的な作風の合法的な素人映像のマーケット)を、その狡知のみを頼りに切り拓いたのだ。

 2019年の今、FC2にはプロのメーカーが作った作品があたかも素人が製作したかのように偽装され大量に販売されている。これは、あんぐら堂ら個人動画制作者の売り上げを圧迫する主な原因となっているが、裏を返せば、それはプロ側の白旗宣言でもある。あんぐら堂の登場以降、マーケットにはあんぐら堂のフォロワーが急増し、市場そのものも急拡大していくことになったのだが、元はといえばごくごく小規模なものだった。たとえるなら、それは街の裏通りの闇市のようなものだったのだ。しかし、その闇市は気づけば拡大し、多くの人で賑わうようになった。そしてついに、最初はその存在を気にも止めていなかった大手のデパートが、こっそりとそこに販路を求めるようになったというわけだ。

 これはアダルトメディアにおいて起こった静かなる革命である。同時期にテレビとネット間で起こったyoutuber革命ほどに世間に周知されているわけじゃないが、構図としては同じだろう。いま、芸能人たちがyoutubeに活路を求めだしているのと、プロのAVメーカーが素人市場に活路を求めだしていることは、まったくパラレルな関係にある。そして、youtuber革命の旗手がヒカキンだとしたら、アダルトの世界で起こった静かな革命の旗手はあんぐら堂なのだ。大袈裟な、と思うかもしれない。だが、これは本当の話である。




 さらにいうと、この革命は、あんぐら堂の狡知がなければ実現しなかった。だからこそ、僕はこの狡知を評価したい。そして、あんぐら堂の半生を追ってきた僕たちは、あんぐら堂の狡知が、いわゆる拝金主義的な、物質的欲望の充足に向けられたものではないことを知っている。連載のタイトルにもあるように、あんぐら堂が求めてきたものは一貫して少女であった。ただ運命の少女と出会うため、そのためだけに、あんぐら堂は狡知を張り巡らしてきたのだ。

 僕がそんなあんぐら堂の姿に重ねるのは、フィッツジェラルドの名作『華麗なるギャッツビー』の主人公、ギャッツビーの姿である。ギャッツビーは1920年代のアメリカの大富豪だ。小説ではギャッツビーが毎夜のように自分の城で盛大なパーティーを開き、乱痴気さわぎを繰り返している様子が描かれていく。しかし、なぜこんなパーティーをギャッツビーは毎夜のように繰り返すのか。そこには理由があった。

 実はギャッツビーは貧しい少年だった。ある時、ギャッツビーはある娘に恋をするのだが、彼女は金持ちの娘で、二人は結ばれず、結局、彼女は同じように金持ちの男と結婚してしまった。ギャッツビーはその悔しさをバネに、その後、持ち前の狡知によって、時には法を犯しながらも大金を稼ぐことに成功した。そして、大きな城を建てて、毎晩のように盛大なパーティーを開くようになった。なんのためにか。ギャッツビーは自分が手にした富に、いささかの興味もなかった。ギャッツビーはただ、かつて恋をした金持ちの少女が、そのパーティーに現れるのを待っていたのである。

 あんぐら堂にはギャッツビーのような派手さはない。ただ、その孤独に立つ精神と、一途な想いのために狡知を用い、大金を手にしていく様子は、どこか似ている。ちなみにギャッツビーの物語は運命の恋人と再会した末にギャッツビーが殺されるという悲劇的な結末になっているのだが、果たして、あんぐら堂の物語はどう終焉するのだろうか。

 最終話を控え、今回はあんぐら堂のなした事業の大きさについて、少しだけ解説を試みた。次回、静かなる革命児あんぐら堂の物語をいよいよ閉じたいと思う。


(つづく)