貨幣フェティシズムの発生について、マルクスを引き合いに講釈する必要など、もはやあるまい。我々は金が好きだ。貨幣が好きだ。それはもう、どうしようもなく、狂おしいほどの情熱である。女のために、あるいは男のために命を落とすものというのもまた、シェイクスピアの昔から数多くいる。しかし、金のために命を落とすものに比べれば、恋の迷宮の深奥で命尽きるものなど、ごくごく少数であろう。金は愛よりも、命よりも、あるいはこの地球よりも、はるかに重い。たとえ、それが哲学的真理とは程遠い、時代の共同幻想に過ぎないのだとしても。
あんぐら堂、この稀有なる魂を持つ男もまた、こうした金の持つ呪術的な魅力を前にしては無防備だった。20歳そこそこにして、年収1000万円をゆうに越える収入を手にしたのだから、無理もない。リスクへの警戒はすぐに失われていき、いわば、あんぐら堂にとってそれが普通の日常となった。コピーした裏ビデオの転売で月に200万円ほど荒稼ぎしては三ヶ月ほど冷却し、ほとぼりが冷めたらまた転売、この繰り返し。ルーチン化はたちまち感覚の麻痺を生む。あるいは、さらなるリスクへの渇望を。
しかし、約束された破綻はすぐには訪れなかった。大金を手にした若き実業家は、まず当初の目論見へと邁進を始めることになる。そう、少女との恋愛、そしてセックスである。もはや塾講師になる、といったまどろっこしい手続きには関心をなくしていた。文系の大学生である。稼働期間を除いては時間も無限にあった。
「当時は部屋の中がビデオデッキだらけでしたね。稼働期間の一ヶ月はそれこそ眠い目こすりながらダビングして、朝になったら発送しての繰り返し。もちろん、裏ビデオ屋からの仕入れも行う必要がありました。ただ、冷却期間になると一気に暇になるんです。とはいえ、実際に大金を手にしたらもう塾講師になるってのもダルくなってて。そんな時、オフ会で知り合った人に、横浜の中区の公園でいい子たちを見つけたと連絡が入ったんです」
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新車を購入したら、まず公道で走らせてみたくなるのは、普遍的な心理である。普通、ガレージで寝かせるなんて高尚な真似はしない。実は、それは少女においても同様なのである。早い子であれば小学校の高学年ともなると、身体にどこかセクシュアルなニュアンスが帯び始める。まず胸が膨らみ始め、続いてぷっくりと膨れていた腹部にくびれが生じ、臀部の曲線が強調され始める。あるいは、視覚的な変化のみならず、内側にも変化が訪れる。性欲という、それまでとりとめがなく、全方位的に向けられていた漠たる衝動が、下腹の亀裂、ヴァギナヘと局在化されていく。つまり、この時期、少女は唐突に性的な身体を手にすることになるのだ。そして、程度の差こそあれ、こう思う。この新しく手にした性的な身体を試してみたい、と。
「その子はすごい可愛くて、年齢の割にマセた子だったんです」
あんぐら堂が横浜の中区の公園で出会った少女は小6だった。彼女はすでに初潮を迎えており、異性への好奇心、セックスへの憧れに、胸をときめかせていた。とはいえ、同級生の男子たちがその対象となるかといえば、難しい。男子の性の発育は女子に遅行するものだし、あるいは、すでに精通を迎えている同級生もいるかもしれないが、その男根は頼りなく、少なくとも彼女の不安にも満ちた身体を委ねるには相応しくなかった。
「いわば、お互いの求めるものが合致したんです。トントン拍子に仲良くなって、やがて付き合おっか、みたいになり、キスとかもしました。かなり浮かれてたと思います。横浜に住む彼女と会いやすいようにと、現地に部屋まで借りてましたから」
当時を振り返り、陶然としたまなざしで「有頂天でしたね」と語る。少女との恋愛、それはあんぐら堂が10代の頃から抱き続けてきた悲願であり、たとえのぼせあげてしまったとしても無理からぬ話である。そもそも、当時のあんぐら堂にとって、恋人という存在自体が初めてである。デート一つをとっても新鮮な驚きと感動に満ち溢れ、できたばかりの恋人の幼い横顔を目にするにつけ、まさに幸福の絶頂へと至るような思いであった。しかし――。
「映画館に行ったり、一緒に観覧車に乗ったり、そうそう観覧車ではフェラまでさせたんです。もうセックスまで秒読みというところでした。だけど、その土壇場でいきなりフラれちゃったんです」
突然の破局。ハッピーエンドの最終話を目前にドラマの視聴率をピークへと導く、あの忌々しきどんでん返し。小学校6年生から一方的に告げられた「あまり好きじゃなくなった」という言葉を、しかし、児童の気まぐれなのだと言い切ることはできないだろう。あんぐら堂自身、おおよその理由はわかっていた。
「僕の恋愛経験の無さが仇となりましたね。マセてるとはいえ、相手は小学生で僕は大学生。当然、引っ張ってほしいと思ってるんです。だけど、経験がまるでないものだからうまくリードもできず。情けないですが、小学生相手にたじたじで。その子はいずれキャバ嬢になった子なので、そういう意味では当時からヤンキーぽさもあり、そもそも人種がちょっと違ったのかもしれませんが」
そう、しばしば起こる、あのトラブル。男にとって、男のピュアネスには、千金の価値がある。ピュアゆえに露呈した不器用さは、むしろ真心の証なのであり、そうした部分を含めて相手には喜んでほしいと、男ならば願ってしまいがちだ。しかし、その純愛欲求は、女からしてみれば「エゴ」に過ぎない。かつて、エーリッヒ・フロムが正しく解き明かしたように、愛とはすなわち技巧である。つまり、真心の押し付けは愛に非ず、相手が望むものを先取りし、それを巧みに演じてみせる、その技巧こそを愛と呼ぶのである。
「落胆しましたね。本当に目前までいってましたから。自分の経験のなさを唯呪いました」
もちろん、同情の余地は大いにある。恋愛ドラマや恋愛マンガによって女子たちに植え付けられた「スマートな純愛」という矛盾に満ちたファンタジーは、今日、ますます隆盛を極めている。しかし、恋愛にスマートでいられるのは、それまでの不純な恋愛があってこそ。純粋であるとは愚かであるということであり、その両極を求めることは、俗にいう「おいしいとこどり」に他ならない。
しかし、そんな不平をいくら述べてみても、セックスは遠のくばかりというのもまた現実。それを示すように、20歳の大学生とマセた小6の恋物語は、セックスに至ることなく夏休みの淡い思い出として、あるいはせっかく借りた横浜のアパートとともに一期の徒花として、終焉を迎えてしまった。
あんぐら堂の心に再び卑屈さが顔を覗かせようとしていた。しかし、そんな折、ロリコン仲間のコンビニ店長から新人のアルバイトに処女の子がいるから紹介するよ、という連絡が入る。持つべきものは、やはり同志ということか。
「その子は同い年の子で、知り合うとすぐ向こうからエッチしようと積極的に求めてきました。最初ははぐらかしていたんですが、結局、その子で童貞を卒業することになったんです。まあ、ここは大人相手に一回練習でヤッておこう、という思いもありました。次に少女と出会えた時にスマートにリードするためにも」
記念すべき初体験、しかし、自我を捨ててまでしたセックスに感動はなく「こんなものか」という程度のものだった。私見ではあるが、それで良かったのだろう。童貞は童貞ゆえにこじれる。既成事実のようなものだとしても、そんなものは早く捨てておくに越したことはない。実際、「こんなものか」という悟りを得たことによって、それから間もなくして、あんぐら堂は本当の意味で悲願を達成することになる。
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初体験の相手からは交際を迫られるも拒否、再びあんぐら堂は「声かけ」へと戻っていった。ここら辺、この男は実に潔くて感心してしまう。あらためて「声かけ」の舞台に選んだのは、ロリコン仲間から「狙い目」と聞いていた新宿区の某公園。実はその公園、筆者の家の近所でもある。
「その公園にはプレイパークというのがあったんです。基本は小学生が遊んでいるんですけど、なかには不登校の中学生とかもきてて。前にやっていた見守りのバイトと一緒ですね。大人がボランティアでそこに参加して監督をするということが行われてたんです」
例によって、あんぐら堂はすぐに横浜に借りたアパートを解約し、今度はその公園のすぐ近くへと転居。大学生活もそこそこに毎日のようにプレイパークへと通い始める。
「そんなある日、ある中学3年生の女子と仲良くなったんです。その子は体型が細くて、大人しそうな雰囲気のオタク少女でした。すでに童貞じゃなかったこともあり余裕も出てましたから、話している反応でこれはいけそうだなとなり、すぐに借りたアパートへと連れ込んだんです」
結果、再び交際へ。そして、ついにあんぐら堂は少女とのセックスを果たすことになった。しかし、ここら辺のエピソードを、あんぐら堂は実にさらっと語るのである。ある意味、あんぐら堂にとって「ちゃんとした最初の恋人」。さらに言えば、念願だった少女との恋愛、そしてセックスが実現したのである。初心を思い起こせば、この物語自体、ここで大団円を迎えても良さそうなとこなのだ。なのにも関わらず、口調は淡々としていて、言ってしまえば感動の気配がない。
「もちろん、嬉しかったですよ。ただ、なんていうか、思ってたほどの喜びはなかったというか。実はその子と付き合ったのが中3の終わりで、実際にセックスしたときはもうJKになってからだったんです。ロリコン的にはそこって微妙で。言っちゃえばJKはもう高めのボール球であって、ストライクじゃないんですよね。裏ビデオの世界でもJCとJKじゃ雲泥の差ですし。まぁ、それでもその子とは結局7年くらい付き合うことになるんですが」
吾唯足知(われただたるをしる)。聖徳太子がかつて鋳造貨幣へと刻んだ四文字。この文字をあえて貨幣に刻んだという事実が、人が決して足ることを知らぬ強欲な存在であるということを裏腹に示している。あんぐら堂にとって、それまで全ての目的が少女であった。その目的を獲得するための手段として、大学があり、裏ビデオの転売があり、金があった。しかし、いざ目的を獲得してしまうと、どうにも満ちたりない。まだ飢えている。まだ足りないのだ。
あんぐら堂がいうように、JCとJKの違いは大きいのだろう。しかし、そもそも、かつて非モテをこじらせ、劣等感の塊だった男である。それが大金を手にし、15歳の可愛い彼女まで手にしたのだ。もう少し満たされてもよいのではないか。客観的な自分が勝ち組へと上り詰めていく一方、裏腹に癒されることのない飢餓感、その辻褄を合わせるかのように、あんぐら堂はいよいよ金儲けに邁進し始める。
「デート代を稼ぐ、という名目もあるにはあったんですが、ただ正直、お金儲け自体が楽しくなってきてもいました。それに裏ビデオ屋の転売を始めて2年くらい経つと、ヤフオクの本人確認が厳しくなって、今までみたいにオークションで転売というのが難しくなってもいたんです。それで自分でサイトを立ち上げてみたりもしていて。で、そうこうしてるうちにいよいよそっちに夢中になっていったんです」
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「ロリの屋」――それがあんぐら堂にとって最初の屋号だった。むろん、これまでにサイト設計などしたこともない。オリジナルサイトといっても、当時あんぐら堂が裏ビデオを購入していた本物の「アングラ堂」(当時、架空口座や裏ビデオまで取り扱っていた通販サイト)からHTMLを抜き取り、ほぼコピーサイトを作るような形で作っただけのマガイモノだった。現在、彼が自身を平仮名表記の「あんぐら堂」と称しているのには、こうした由来がある。言ってしまえばフェイク、しかしフェイクであることを隠すことがないフェイクは、一周まわってリアルよりもリアルである。
「僕はどこまでもコピーなんですよ。裏ビデオをコピーし、それを裏ビデオ販売サイトのHTMLをコピーしたサイトで売る。さらに言えば、サイト名も吉野家のパクリでしたしね」
こうして新たに商売を始めたあんぐら堂だったが、いくつか問題もあった。当時、裏ビデオ売買においては当たり前のように詐欺が横行していたのである。ようするに入金したのにビデオが届かないというあれだ。あんぐら堂もまた少年時代にこの手の詐欺に引っかかったことがあった。オークションであれば大元がいるぶん安心感があるが、新設されたばかりのいかがわしいサイトを客たちが信用する理由はない。売れ行きを伸ばすためにも、どうにかして警戒を解く必要があった。
「そこで、まずは信用を得るために1本目は後払いでいいというシステムにしたんです。その代わり、通常価格が3000円なのに対し、後払いの場合は5000円に設定しました。もちろん、局留めは絶対にダメで、電話番号も必須。こういう仕組みにすれば、客も信用するだろうと思ったんです」
ユーザーの立場に立った商売プラン。実際、この方式は大当たりだった。次々に注文が入り、またどの客もきちんと後払いで振り込んできた。意外とみんな誠実、という話じゃない。皆、安全に裏ビデオを買える場所を求めていたからこそ、またとない良心的なネットショップが登場したからには、継続的に購入を続けたかったのだ。光る商才。サイトはすぐに軌道に乗り始めた。
「4本セットで1万円とか、お得なセットもいろいろ用意しましたし、架空口座でゆうちょもあったから代引きもできるようにしました。商品のラインナップの勘所はそもそも分かってたんで、まあめぼしいところ取り揃えて。で、ガーと盛り上がってきたところでいったん閉店する。閉店セールと打ち出すと儲かるからです。で、またしばらくしたら開店。これを繰り返してました」
当時、転売ビデオ屋自体がそう多くなく、特にロリに特化している転売屋はあんぐら堂くらい、つまり、ほぼ独占市場だった。違法ビデオの違法コピーと違法づくしではあったが、そのぶん、ユーザーからは支持されていたし、ユーザー含めて皆が共犯者であるため、通報するものもいなかった。当時、月の売り上げは300万円ほど。ダビング、発送を含め、全て手作業であり、その日々は多忙を極めていたが、そうした労力をペイしても余りある収入である。オフの日は若くて可愛い彼女と旅行などに出かけた。はたから見れば順風満帆すぎる日々、しかし――。
「それでもなお満ち足りてはいませんでしたね。今度はもっと若い子にも興味が湧いてきちゃったんです。やっぱり小学生がいいなあとか。仕事に関してもそうで、転売してるだけというのがつまらなくなってきてしまって。やっぱり自分でも撮影してみたいなあなんて思い始めちゃったんです」
高校生の頃、自作の官能小説を雑誌に評価された時に感じた筆舌に尽くしがたい充実感、あの感覚を再び味わいたい。眠っていた創作への欲望が、再びあんぐら堂の中で煮え滾り始める。あるいは人付き合いが苦手で、コミュニケーションを不得手とするあんぐら堂にとって、自分の分身たる創作物こそが他者とのコミュニケーションの回路なのかもしれなかった。折しも時代は援交裏ビデオブームの最中、関西援交、宇都宮援交といった当時の児童ポルノ制作者たちの作品を転売しながら、一方で「俺ならこう撮る」という思いも積もっていた。
「ちょうど大学卒業も重なってて、多分、焦りもあったんです。モラトリアムは終わったのだ、と。転売だけ続けてても、どうせ破綻は目に見えてる。だったら、自作コンテンツでもっと大きく稼いで、早々とセミリタイアしちゃおうじゃないか、と。サラリーマンの生涯年収が3億円なら、がっつり短期間でそれくらい稼いで逃げきってやろうみたいな」
あんぐら堂はそう語るが、おそらく、それは自分に対する言い訳のようなものだ。このままのペースでいけば転売屋だけでも、相当な財が築けたはずである。そもそも、破綻を恐れるならばなおさら、コンテンツ作りなどリスクの塊だろう。結局、打算ではないのだ。足ることを知らぬ欲望の疼き、それこそがあんぐら堂を突き動かす動機だったのではないか。そして、思い立ったら即行動があんぐら堂のつねである。転売屋の売上金で予算ならば十分すぎるくらいあったし、どういった作品がロリコンたちに受けるか、そのツボも心得ていた。すぐにモデルを探し始め、そして、すぐに見つけた。
「2003年くらいだったと思います。インターネットのモデル掲示板で見つけた子で、当時まだ中学校2年生でした」
それは児ポ法の施行から数年が経ち、世間ではロリコン弾圧の手がいよいよ激しさを増していた時期のこと。約束された破綻へのカウントダウンは、すでに始まっていた。
(つづく)